昭和50年11月11日朝の御理解
入力者 大坪謙一
御理解第68節「神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものをいうとおりに拝め」
「その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と、どんなに、それこそ雨風も厭わんというて、ならお参りを続けたというだけでは身に徳はつかん。何十年間降ろうが、照ろうが、言わば朝参りを続けたからというてお徳を受けるのではない。勿論そういう信心が必要ですけれども、その焦点とするところ。ね、そのめあてというものがまちごうておったら(間違っていたら)どんなに雨風を厭わんというて、辛抱ずようお参りしても、それでは身に徳はつかん。身に徳が付くという、いうならば絶対のところに焦点をおいて、そして、雨が降ろうが風が吹こうがというような信心をさせて頂いて初めて身に徳を付けるんです。
心経や、大祓いを大きな声で、例えばあげたり節をつけたりせんでも、小さい声でも聞こえると。いうなら形のことでは無いということです。それこそ人にものを言う通りに、ね、なんでもない普通のように神様には拝んでよい、頼んでよし。ただその頼み方が、ね、焦点を間違えないで、いわいる願う順序を間違えないで( ? )ような信心におかげを頂くのであり、またその願いの筋がすばらしいことであれば、お徳も受けていくことになります。
昨日で、お月並祭が終わりましたから、先日から、まる二日ですかたね、あっ違った三日、秋永先生御本部の入殿があったと。いわいる、もうそれこそみっちりあちらで、まぁ鍛われた。信心の、いうならば、あーけいこをしてきたわけです。講師の先生も何人も居られて、ある先生が「皆さん、私がずっとお話をしたお話が分ったでしょうか」というて聞かれた。秋永先生が「いっちょん分りもせじゃった」っち。(笑い)「もう、あなたのごともう難しゅう言いなさったっちゃ、とてもそれはいくら教会の代表っちいうごたるとが来たっちゃ、あー、あのー先生のような表現をしなさったっちゃ分りませんよ」っち。
「合楽あたりでは、こういう風に解かれます。こういう風に聞きます」というて、まぁ合楽の話しをしたという。最後の終わりの時に、まぁぎりぎり結局のところ「秋永さんが言われたようにそれが本当だ」というて結ばれたということです。ね、私はそのことを詳しく三日間の話しを家で私と、上野さんと高橋さんと繁雄さんで聞かせてもらいました。
聞かせてもろうて、これはいよいよ合楽の信心が金光教の正面にでるようなおかげを頂かなければね、これはとても金光教は助からんということになります。
ね、その為にはね「先生、私ども一人一人がどうでもやはりおかげを頂かなければです。そのおかげをひっさげての、いうならば合楽示現活動でなからなければできんということを痛感して帰った」というのです。ね、どんなになら合楽の信心が素晴らしいというても銘々がやはり「これを見て下さい」というおかげを頂かないかぎりはね、それがどこまでもやはり弱いものになってくる。皆さんが遅うまで(セキをする)そのお話を聞いたり、話しとかして頂いたりして帰られた後に私また御祈念をさしてもらいました。
本当に、せっかくの教団で今、あぁいうような大きな運動が起こる前提として、もう大変な、それこそ大童な、あー、ちょっと仰山らしい、またこれは今日の御理解でいうなら
大きな声をあげて節をつけて、えーいよるもんじゃないでしょうか。全国(つつうら?)の教会に、いわばそういう金光教の革命ともいわれるような大きな運動が来年6月を ( ? )てるその前に、もう下ごしらえ、下準備というものがです。あっておるわけです。
それで、あれだけのお金をかけあれだけのなら大声をあげて、いわば( ? )の教師信者をとわずに良い働きかけがあっておるのですからそれが無駄になるようなことであってはならん。あれだけの運動をこうしたけれどもやっぱり( ? )じゃったというようなことであってはならない。
●そのことをそして祈らせて頂いておりましたらね、こういうような絵を頂いた。ちょっと絵が下手ですから分りませんけれどもね、分るですかの?んー、ここの、こちらの済みにテンテンテンしとるところはね。もうどこまで限りなく続いとるか分らんというような「蓮根畑」でした。そしてここの真中の白い所が日本地図のようにこういう風に映っとりますね。この白い所がまぁ金光教なんです。後ろの方は、まーだ真っ黒な未開の地です。ね、こういう状態にあるとにです金光教では、この前の方にある蓮根畑を埋め立てをしよるという準備を一生懸命しとるところを頂いた。
蓮根畑を埋め立てる。してこれが少しばっかりね例えば、広なる。金光教が広なるごと一生懸命に埋め立てをしようという準備をしておる。皆さんもここで御理解を頂かれたから分るけども蓮根のお知らせは「信心はでけんけれども神様が蓮根食うて下さってのおかげです」いうなら私どもが頂いておるようなおかげなんです。皆さんが頂いておるようなおかげなんです。ね、この蓮根畑というのは神様が信心はでけんでもその気になれば、ね、筋が間違えさえしなければ、ね、信心は例えばでけんでも一つできりゃ十も二十もでけたようにしておかげを下さるというのがこの神様の働きというかおかげの世界がこんなにまだある訳です。
ね、その蓮根畑を埋めてちっとでも広なそうというその精進は本当にけだけたことだし努力も大変いることでございましょうけれども、いわばこの蓮根畑を狭うしていくことになるのです。本当のおかげの世界を狭うしていく、なるほど金光教は少ーし( ? )かもしれんけれども、埋め立てるのだけは、けれども埋め立てるということは大変なけわしいことだということなんです。日本列島がですね、もうこまいからなら日本海の方太平洋がわの方ば埋め立てしてちっと日本ば広げようというようなもんなんです。ね、だからこのへんのところをよーく一つ分かって下さいよ。
これは、結局はなら教団だけのことだけじゃないんです。ね、いわいる前の方をいうなら蓮根畑をいわば埋め立てするから土地は本当に埋め立てができれば少しは広なるかも知れんけれども、ぎりぎりのところは神様のおかげの世界をせもうしていく、これを人間心でする信心ということです。だから今日の御理解にどんなに雨がふるから風がふるからというて辛抱してもです。この埋め立てにども協力するようなことではおかげにならんことがわかるでしょうが。ね、私はだから今のあり方には、本部のありかたには協力はでけないということになるわけです。ね、後ろの方にはです。
ね、手前の方より自分の方にはです。これだけまだ広い黒々と未開の地がずーっと広がっておるわけです。ね、自分の心の上の開拓をしなけりゃいかんです。前の埋め立てじゃないです。他の埋め立てじゃない。手前の方自分の方の、いわば開墾。それが全教一心してという教祖様が先代の教祖様が、三代金光様が教えられとったように全教一心、全教一家と仰せられとったが全教が一心するということは、いわばそれを最近では世界に布教する金光教といったようなことを申します。
社会に布教する、ね、昨日私の話しを聞き終わってから秋永先生本当にそういう風に一生懸命に社会に布教するということをです。ね、盛んにやっとりますけれども、んなら皆さんが社会にでて金光教のこと語ったっちゃ「あぁあんくらいんとが金光教ばいの」というぐらいなこっちゃいかんじゃない。ね、どんどん宣伝してまわる。先日の、んー教法にのっておりました。どこどこの青年教師の方達が街で、えー(?)をやっとる。いわいる、一生懸命お説教をしたわけです。一人も聞くもんにゃおらじゃったげないくらどげんいうたって。
ね、金光教のいうならば信心が貧しいところだけしか頂かずに話したって、人には聞きてはないですよ。ね、だから秋永先生どうでもやはり銘々がやはり力を受けて、力を受けらいうならおかげを受けておかげを受けた者が世界にいうなら向けて、いわいる合楽示現活動に参画させてもらうというような生き方にならなければ本当の金光教の立ち直り、建て直しにはならない。ね、これはだからならもう少し小さく銘々のところに見てもよいです。お商売ならお商売をする。ね、おとくいさんを拡張する。そんために一生懸命おとくり参りをする一生懸命回らしてもらう。いわいる人間心で「さぁ今日は大祭ばってん商売の方が忙しかから」というてから一生懸命商売をする。
今日は十三日会やけれども、ね、もう午前中に御用せんでただ良かとこ話しだけ聞きにいこうといったぐらいなことではおかげにゃならん。ね、いいや来るだけでまだ今日は十三日会ばってん仕事が忙しかけんというて、そしていかにそれが儲かってでもです。それがならおとくいさんが広がってもです。それはちょうど蓮根畑を埋めるようなものです。
神力無限の働きには繋がらんです。それよりも神様の御用を第一とするような生き方をさせて頂いてです。いよいよこの向かいの方を開拓して自分の心の開けてないところ開いていくという生き方にならせて頂くときにです。
神様がね、前の方の蓮根畑それこそ神様が本当なことに向かえば本当なおかげをです。それは一つ本当なことに向こうても十も二十もそれこそ蓮根食うて下さってのおかげというものが頂けるのです。ね、ですから人間心で例えば商売をしてです。ね、神様のことはほうからかいといてからです自分が努力したっちゃそれはそれだけそれはちょうど金光教が狭いからもう少し広げようというて前の蓮根畑を埋めるようなものなんです。いかに広がったごたるけれども実を言うたら不思議な不思議な示現というかね、神様の不思議な働きを表してくださるというか、蓮根食うておかげを下さるというような場を狭めていくようなもんです。人間心で商売を広げていったっちゃ。
ね、御神徳を頂いて、ちからを頂いて本当にいつの間にこれだけ広がったか分らんというようなおかげをね頂く商売でなからなければおかげになりません。本当のおかげになりません・・・ね。神力無限とおっしゃるが無限の働きをもって氏子に用はいうならば神が足してやるとおっしゃるようなおかげを頂かなければ金光教を大きくしていくことも、また銘々がおかげを本当の意味においてのおかげを頂いていくということにもならんのです。だからそういうところに焦点をおいての「雨が降っても風がふいても」というような、 いうならば人生の荒波とでも申しましょうか、ね、人生の上にも雨もありゃ風もある。
それを乗り越えるだけではない。焦点を間違えずして乗り越えて初めてその辛抱こそ身に徳を受けるのじゃということになることがですわかるでしょう。何十年朝参りを続けておるというても一向お徳を受けとる風ではないおかげを受けとる風ではないというのから見てもです。いかに雨風をついてお参りをさせて頂いてもそこを辛抱して参ってもです。焦点を間違えたらお徳にはならんということです。この絵(?)ほど、ね皆さんが上手に書いて下さい。こっちは蓮根畑です。この白かとこだけが今の金光教です。ならこの蓮根畑まんなかの白かとこばかりが皆さんが頂いておるおかげというてもいいです。
だからこのおかげの世界を広げようというて、その蓮根畑を埋め立てようといったようなことでは、ね、それは埋め立てられるかもしれません。ちいっとぐらい広うなるかもしれません。けれども本当言うたら、神様のおかげの世界を狭めていきようるもんです。
そげなことですよ。それよりか自分の後ろの方が見てご覧なさいそれこそ黒々としたこんなに広いまだ(?)と思われるようなです。開墾をして行けば開拓していけば、開拓のできれるね、勿論自分自身の心をいよいよ開拓していくということに、それを最近合楽では心行というわけです。
私は、この頃「心行」っていうことはあんまり言いませんけれども、皆さん本当にね、本気で心行なされないかんです。もうこりゃ四六時中できることですから。心に懸けさせて頂いておれば・・・ね、これをこうしとけばあの人が喜びなさるということを黙ってすることなんです。または、「心行とは暑い寒いをいうてはならん」とおっしゃるから、自然に起きて来ること、ね、自然に起きて来る暑い寒いだけではないすべてのことをです。不平不足を言わずに、いわいる成り行きを大事にして頂くという生き方。ね、心行とはちょっとした自分の心がけが、ね、人に潤いを与えたり、ね、便利を与えたり。
人が気持ちがようなんなさるような働きというものをです。耐えず自分の心の中に考えておくということなんです。ね、その心行と同時にです。いわいる自分の心がまだ開けてない。まだ未開の心をです。いよいよ開かせていただくところの修行をさせて頂くということと同時にいうなら「雨が降っても、風が吹いても」ということになるのです。ね、それを辛抱しぬくということ。今教団で、ね、それこそ拡声器をつけてあるように津々浦々の教会へ向かってです。様々な文章が毎日きます。
そして、来年から開かれるところのその金光教のそれこそ革命とも思われるような運動を展開しよう。起そうとされておるその働きがです。どういうことかというと前の方の蓮根畑を埋める時にはどげな風にして埋めたなら良いかということを教義しておられるようなことですからこれには協力がでけないという風に私は感じました。ね、そして、なら秋永先生がそのあちらで言われたという・・ね・・あの松の字をもって御理解を頂いたそのことを話された。「今の金光教のありかたというのは、気は小さくて口だけが大きい」と。
というあの松の字の御理解。
ね、だから心を豊に大きくしていこうとする、私は精進こそです。未開の地をいよいよ大きく広げていこうという精進どと思うです。皆さんそうでしょうが?(笑)ね、もう絶対そうなのですから、皆さんどうでも自分の心の世界を広げていく、豊にしていくという生き方をですね、自分の心の未開のところをです。ね、開拓していくという、いわいる開拓精神をもっての信心修行でなからないかん。ね、そこにそれを拒むように雨が降ったり、風が吹いたりするようなことがあるけれども、そこを辛抱しぬいていくということがです。身に徳を受ける修行という的確な信心になってくるわけです。
●そのあとにこういうことも頂いた。えーこれは皆さん分りますかな?(紙を見せる)「傘」という字ですよねこれは、「傘」夕べから昨日から頂いておるね、安心という
安心の( ? )という時に、あの傘というのは、この上が山でしょう?そして人がこうやって座っとるでしょう?そして中に十の字がずーっと引っ張ってある。ね、山ということは皆さんご承知のように修行ということ。修行がとれたら人が降りる。修行が取れたら人が降りる。ね、後に残るのは十字架ばかりと頂きました。山がとれて人が降りたら後に残るのは十字架ばかり。ね、他教の先生が安心のおかげを頂かれて沢山の人が助かった。
ね、ところが先生が例えば亡くなられた。そして修行もなんもぶらんぶらんしておる。ね、修行( ? )で信心がどんどん減ってしまう。人はおびてしまう。そして後に残るものは十字架ばかり。ね、難儀を背負うということは十字架を背負うというでしょうが。私はこの御理解を頂いてからもう本当に今の金光教にそれを当てはめてみるときにですね。私は今日は改めて四神様、二代金光様のお取次ぎを頂いてお願いさせて頂いたことでした。
四神様あなたのご時代の時代はです。それこそ九州には桂先生、石橋先生、安武先生、吉木先生、ね、といったようなです。先生方がもうそれこそ次から次とできられた。
その先生方の場合なんかはです。いうなら修行の焦点というものが全部です。その埋め立て地を、その蓮根畑を埋めるようなことは決してなさらなかったです。ただ自分自身の心の開拓だけに熱心になられたんです。ね、それで自分が導いたのではない自分が開けたのじゃない神様が不思議な不思議な働きを現して前々九州の信心が広がったんです。もうそれこそビックリするように広がったわけです。それを蓮根畑を埋めていったんじゃないです。神様が蓮根食うて下さって、いわいるこちらの、ね、開拓地の方が広がっての広がりであった。
それを受け継がせて頂くなら私共がです。ね、そこのところを頂かなきゃいけんのです。ね、なんか昔の信心と現代の信心は違うにいかんごというけど、そんなことであろうはずがない。おかげを頂く、お徳を受けるということは今も昔も同じこと。ね・・・。秋永先生たちの言っておられます中に、ね、皆さんこうやって、えー入殿をなさって信心のけいこをなさる。ね、皆さんが社会にでて、あらゆる面にでて、いわいる社会に金光教を広めて頂かなきゃならん」とようないうようなことを言われたそうですから秋永先生が言われたそうです。
「私どんがいくらバタバタしたってそげなことできませんが」っちそれはもうこれだけ北九州から、あー四十名五十名の方達があつまりなさるけれども、この人達は絶対外ん出てからそんなことはしきんなさらん」っち私に。ね、それにはね、それだけのやっぱり力を頂いて、ね、いうなら町会議員で御座いとか、ね、市長さんで御座いとか、ね、建築さんで御座いという人達が信心になってです。その人達が社会に現せしていってもらわなきゃ「私どんぐらいなつがどうして現しきるですか」っちいうちから言よったっていうんです。(笑い)合楽には市長さんもござれば建築さんもござるし、だからそういう意味でなら働きがでけておるということを言われた。
ね、だから私どもはです。もういよいよ信心の力を頂いて、ね、いうならば教会に力にもなろうという内面的な力になろうということならでくるけれども私どもが外へ出てからどうしてそげな社会に、えー貢献でけるような信心を金光教をいうて回ってだれがついてくるかという意味のことだったそうです。まさしくそうです。ね、(?)なら歩く街でです。青年教師の方達が一生懸命になら金光教を解かれてもです。力のないもんでだーれも見向きもせじゃったち。一人も立ち止まって聞くもんがなかったということです。「あー残念」っち残念がることはなーにもない力がなかからです。ね、本当に助かる話しならばです。それこそね、もう周囲にいっぱい集まってくるでしょうよ。ね、「とてもそげな難しか話ししなしゃっちゃ分らんばの」っちいうちから秋永先生が言われたという。(笑い)
そりゃがっかりだったでしょうね、講師の先生は。「せっかく話したっちゃ分らん」っち。
ね、また分らんでも良し。分ったっちゃ大したことなかというようなことではなくてです。ね、こう行くならば間違いないという話しでなからにゃいけん。今日皆さんに聞いて頂いたのはこういういうなら「雨が降るから、風が吹くからえらい大儀と思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行」と言われるが。なら身に徳を受ける修行と思われるようにです。また頂くようなです。焦点を間違えちゃいけないっちいうことです。ね、前の蓮根畑を埋めて広がそうてんなんてんちいうごたるけちな考えかたではおかげにゃならんと。自分自身の心をね、ね、そうして私どもが力を頂いてです。ね、「これを見てください」というようなものをひっさげて社会に呼びかけるというか、いうならばこりゃまた別です。
ね、今日皆さんに聞いて頂いたことは、まぁ私は「絶対」という言葉を使う、あのー使ってはならんと(?)から注意を受けたんですけども、私は絶対の言葉を使うです。なしかっちいうと神様から頂いたことだから絶対というんです。なら今日の御理解なんか皆さんが本当に分かってくださってです。ね、本当に、あの人間心的なことで立ち行こうてんなんてんちいう考えずに、ね、神様のおかげで立ち行かせて頂く言うならば、ね、手前の所の開拓。心の上の開拓を志なさるならばです。ね、神様がその志が一つであっても神様は十ぐらい信心がでけたようにして、それこそ蓮根食うて下さって、前の方にはおかげが待ち構えておる。しかもどれだけ広いか分らんほどしのいうならば蓮根畑があるということは金光教はまーだこれほど広く、ね、開けていけれる可能性をもった宗教だということを今日改めて感じました。
ね、それになら前の方ばっかり向いて、いかに運動だ革命だといったところでです。それは蓮根畑を埋め立てするぐらいなことにしかならないでしょう。そして結果においては、神様のおかげの世界を狭めていくというようなことに後で気がついたってもう遅いです。今日は、ね、この「雨が降るから、風が吹くから」ということをおしたり辛抱したりしたからおかげを頂くのじゃない徳を受けるのじゃない。辛抱の徳というのは辛抱しがいのある辛抱でなからなきゃいけない。これなら間違いないお徳が受けられるという辛抱でなからなければいけない。ね、そこを目指してのお互い、ね、的確なところを目指しての信心にならなきゃいけないということでございます。どうぞ・・・